人生訓ー2 命を使う
◆命とは時間である、という話を聞いたことがあります。確かに、人の命は、その人が持っている時間である、と言えるでしょう。
もっと分かりやすく言えば、その人に残されている時間です。人は、例外なく天に帰るのですから、あと何時間生きられるのか?それは神のみぞ知るところです。
私も50歳の後半になってから、このことを強く意識するようになりました。そして、自分の命は価値あることに使いたいと心から思うようになったものです。
私が自分に残された時間、つまり私が持っている命を意識するようになってから、今までより優先順位を明確につけるようになりました。
特に人間関係については、自分でも驚くほど顕著になりました。それまでは、気が乗らない懇親会等にも、義務感から出席していたのですが、これは止めました。
今、という貴重な時間、命を、気の乗らない人達とお酒を酌み交わしながら費やすことは、もったいないと感じるようになったのです。
また、職場でも仕事に対して価値観の一致する教職員や本気で教育に邁進している教職員とは、他にやらなければならないことがあっても積極的に時間を作り、ともにディスカッションすることとしました。
本気の人、価値観のある人とのディスカッションは、この上ない楽しみな時間です。自分の命が喜ぶ時間と言えます。
そして、その人達に共通しているのは、必ず、自分から私の都合を聞き、アポをとってくださるのです。ですから、私もこの人たちとの時間を存分に楽しむために、事前の準備もして、その時間はその人とのディスカッションに専念できるよう心がけています。
私の信条としている人生訓のひとつに「一日一生」があります。
今日は生きていても、明日は分からないのです。毎晩、ベッドに入る時、これで目が覚めなくても悔いはない、と自分に言い聞かせながら眠りにつくことにしています。
ですから、今、自分の命を燃やしても悔いのない人との時間は大切にしたいと考えるのです。
こうして、一緒にディスカッションした人との時間は実に楽しく、私自身、大変勉強になります。
逆に、行き当たりばったりで、裏表のある人とは、極力自分の命を使いたくないものです。この手の人との話は、先が見えていて、ディスカッションにはなりません。
個人的な打算が先行しているのを強く感じてしまうのです。もっと言えば、自分の利益を優先するために、私の持っている力を利用しようとしているように思われてならないのです。時に、涙まで浮かべて話し出す人もいます。
涙まで流しているのだから、真剣に悩まれているのかと思いきや、別の人間には、全くことなる態度で、得意になって話しているのが、私にまで漏れてきたことがありました。
明確な裏表があるのです。
このような人のために、すり減らす命を私は持ち合わせていません。
命は、時間です。自分で納得できる使い方をしようと思っています。
「一日一生」、天に帰るその日まで・・・。