学校教育ー8 便器を磨けば心も光る
◆トイレは、子どもたちが最も嫌がる清掃場所でした。子どもだけではありません、私達教師も敬遠してしまいたくなる場所です。
20代の頃、ある校長先生が自らの行動を通してトイレ清掃の必要性を教えてくださいました。この校長先生のお蔭で、トイレ清掃が子どもたちの心を磨き、はぐくむことに直結する実に教育的意義のある活動だということを身をもって理解することができました。
平成の後半になると、衛生面々を理由にトイレ清掃は子どもたちにやらせなくなった学校が多いと思います。そして、コロナ禍には感染予防の観点からもトイレ清掃は子どもたちにやらせてはならないものとなりました。
私が特別支援学校から小学校へ異動して間もない頃、トイレ清掃の指導をしているところへ校長先生がふいにやって来ました。そして、校長先生は、いきなり便器に手をつっこみ素手で目皿を取り出し、きれいに磨き始めたのです。私も子どもたちも唖然としてその様子を見ていました。
一人の子どもが「汚い」と声を上げると校長先生は微笑みながら「汚いことはないよ。みんなの体から出たものでしょう。後で石鹸で手を洗えばどうってことないよ。」と穏やかに諭し、目皿を磨き続けます。
私も校長先生の隣に座り、同じように目皿と排水口を磨き始めました。やがて促されることなく子どもたちも自分たちから便器の掃除を始めました。以後、私は担任した子どもたちには、自ら率先してトイレ清掃ならぬ便器掃除を教えることにしました。
担任したどの学級でも、便器掃除が軌道に乗ると、子どもたちはトイレ以外の場所の清掃にも丁寧に取り組めるようになりました。そして、生活全体に落ち着きが出てきたものです。
担任した子どもたちの中には、卒業間際まで放課後にトイレ掃除をボランティア作業として熱心にやり続けてくれた2人組の女子もいました。2人とも成績も運動も抜群の優等生でした。
トイレ清掃は、子どもたちの心を確実に変容させてくれました。
ところで、「心」とは何でしょうか。心は、人から教えられて身に付くものではなく、遺伝で受け継がれるものでもありません。「悪しき習慣、よくない無意識には、悪しき心がはびこる。望ましい習慣、よい意識の繰り返しには、よい心がはぐくまれる。」ある先輩から教えていただいた言葉です。
ある大先輩が、知的理解は大脳生理学を、心を育むには小脳生理学を拠り所とする、と論説されていました。
小脳生理学的には、自転車の運転や泳ぎ方を覚えるのが代表例だと言います。知的に理解するだけでは不十分で、実際にやってみて、何度も繰り返している内にできるようになると言うのです。
心は理屈や知識で育て上げるものではないということです。「実践や行動を繰り返し、充分熟したところで気化したものが心となる」この説は、子どもたちを指導している立場として大変共感できました。
教育学者で名高い故森信三先生も躾の3大原則として「朝の挨拶をする子に。『はい』とはっきり返事の出来る子に。席を立ったら必ず椅子を入れ、履物を脱いだら必ず揃える子に。」と書かれていらっしゃいます。よい行いを習慣化させることが躾の大原則だと説いているのです。
この手法は、僧侶の修行や武道の修業にも共通しているのではないでしょうか。
頭(大脳)で理解するだけでなく、物事を極めるためには、心の態度をしっかりとさせる。その為には、雑巾がけや礼儀作法、基本動作の反復などが有効なのでしょう。
トイレ清掃で校長先生が若い未熟な私に伝えたかったことは、このことだったのだと思います。
勉強を教える前にまず心を育てろ。心を育てるには、師弟同行の繰り返しの行動が大切だ、と。
令和の時代、衛生面の理由から便器掃除はさせられません。
しかし、毎朝、机を揃えたり、教室内のゴミくずを拾ったりすることなら繰り返しできるはずです。
教室や廊下の清掃活動もあります。
目の前の小さな善行を無意識にできるまで指導すること。そして、大切なのは教師自らの行動を通して子どもたちに伝えることです。子どもたちにやらせるだけでなく、教師も一緒に行うことです。
師弟同行です。
目の前のゴミくずひとつ拾えない教師が、子どもたちに何を教えられると言うのでしょうか?