お膳立てはほどほどに 「教育は愛」No.32

学校教育

学校教育ー12 お膳立てはほどほどにする

◆私が指導主事時代に参観したドッジボールの授業でした。

 ベテランの先生が、ルールやコートについて細かな説明をしています。授業が開始して20分間経ってもその先生はひたすら説明を止めようとしません。子どもたちは完全に飽きてしまい、地面に絵を描き始めています。ドッジボールのゲームを心から楽しみにしていた子どもたちの気持ちが萎えていくのが手に取るように分かりました。

 教師には、何か新しい単元に入る時、入念なまでの丁寧な説明をしてから始めようとする特徴があります。これは、教えなくてはならないという教師の性なのでしょうか。

 ドッジボールの授業は、長い説明の後準備運動、ゲームが始まったのは35分間を過ぎていました。つまり子どもたちは10分間に満たないドッジボールゲームしかできなかったことになります。

 これは、算数セットや図工の工作など、新しく教具を使用する授業でも全く同じ傾向がみられます。説明が圧倒的に多くて、活動がほんの僅か、それでも教師には教えたというある種の満足感があるから困ったものです。

 どうして、子どもたちに思い切って活動させられないのでしょうか?

 ひとつは、教師の「教えなくてはならない」、という過剰なまでの使命感があります。

正しい方法を教えなくては、子どもたちが学習できないと思い込んでいるのです。

 これは、日本の教育が長年、正解を教えること、子どもたちに間違いをさせないことを重視してきた副産物だと思います。

 令和になって、子どもの自主性や試行錯誤、ゼロからイチを作り上げる力などがより一層重視されるようになりましたが、今までの日本の教育では正解はひとつで、間違うことを許さない傾向が色濃かったのです。

 「失敗は成功の母」です。新しいことを学ぶには、失敗したり間違ったりしてよいのです。失敗して初めて今度は失敗しないような工夫が生まれてくるのです。その工夫を待てなかったのが、今までの日本の教育です。

 ティーチングが主体であり、子どもたちにヒントを与え、考えさせるコーチングが亜流だったのです。

 数年前、国のGIGAスクール構想が展開されると、教師はタブレット型パソコンの正しい使い方をどうやって子どもたちに教えたらよいかという議論が紛糾し、依然としてチョークとトーク(教師の話術)だけで授業を進めようとする教師も見られました。

 しかし、いざ、タブレット型パソコンを子どもに与えてみると、デジタルネイティブの子どもたちは、教師の説明など聞かなくても、自在に操作し、課題解決に向けて自主的に学習を始めたのです。

 そもそも人間は、道具を使って進化してきた動物です。始めは間違った使い方をしても必ず修正できる能力を生まれながらに持っているのです。

 この辺りの感覚をこれからの教師は強く持つべきではないでしょうか。始めの説明は必要最小限にして、子どもたちに使い方を見つけさせるのです。説明しなくてはならないのは、危険を伴う場合のみです。

 これは、家庭教育でも共通することです。おもちゃを与えたら、説明抜きで、まずは遊ばせてみるのです。ブロックを工夫して組み立てて子どもたちの発想力や手先の器用さを向上させる企業のスクールと同様です。

  必要以上のお膳立てより、まず活動意欲と学習意欲を満足させてあげることが、子どもたちの無限の可能性に火をともすことにつながるのではないでしょうか

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