家庭教育ー11 母親は子どもにとって絶対守護者
◆例え、世界中の人たちが、私を責めても母親だけは、いつも無条件で守ってくれる、私は、そんな安心感を子どもの頃より母親に対して思っていました。
子ども心に、そんな母親の有難さを感じた経験があります。
小学校6年生の時でした。当時、小学校で問題児だった私は、土曜日の放課後、事故に遭いました。というよりも、事故を起こした、と言ってよいでしょう。全面的に私が悪かったのです。
当時、問題行動ばかりを起こしていた私とその仲間たちは、学校の前の商店に停車していた清涼飲料水の販売トラックの後ろに飛び乗りました。自分たちの家の近くの酒屋さんまで運んでくれると思っての行動です。とんでもない暴挙です。
ところが、私たちの意に反して、トラックは反対方向へ走り出したのです。一緒にぶら下がっていた友達は、すぐさま飛び降りましたが、私は一人タイミングを逃してトラックにつかまっていました。
やがて、トラックは加速し、頭の中が真っ白になってしまった私は、冷静さを失い、両手を放し、後頭部から地面に叩きつけられたのです。
気が付いた時は、救急車の中でした。
やがて意識を失い、再び目覚めたのは、母の私を呼ぶ声でした。私は、ゆっくりと目を開け、心配そうな母親の顔を見て安心し、「大丈夫かい」という声にゆっくり頷いてまた、目を閉じました。
その時、お医者さんが「大抵、耳から血が出ている場合は、ほとんど助からないのですが、お宅のお子さんの場合、この血は耳の浅いところから出ているので、大丈夫でしょう」と母親に説明していた声が薄れゆく意識の中で聞こえたのを今でも鮮明に覚えています。
さて、私は11日間入院した後、退院しました。
退院して数日してから久しぶりに学校へ登校すると、私に対する反応は手厳しいものでした。全校朝会でも、校長先生から私の事故のことが伝えられ、全校児童に対して注意をされた、ということを弟から聞きました。
弟には、愚かな兄の所為で肩身の狭い思いをさせてしまいました。可哀そうに・・・。
担任の先生は、あたたかく私を迎えてくださいましたが、他の先生方の態度は厳しいものです。日頃から問題行動ばかりを起こしていた私には当然の報いとでも言わんばかりです。
友達の中にも「あっ、バカが来た」と指をさして小馬鹿にする者もいましたし、私を避ける友達もいました。私の味方になってくれたのは、一緒にトラックに飛び乗った友達くらいのものです。
情けない事故のおかげで、片田舎の小さな町の小学校ではちょっとした有名人になってしまいました。この時、保護者の間でも「母子家庭の子だから」と、陰口を叩かれていたようです。
このような情けない状況でも、母は決して、私を頭から叱ることはしませんでした。
そして、迷惑をかけてしまった人たちに深々と頭を下げながら、仕事を休むこともなく、弟の面倒をみながら私の看病をしてくれたのです。
私の前では、辛そうな顔はひとつもしません。
そして、「生きててよかったね」と言い、「もうちょっとつかまっていればちゃんとおりられたのにね」と明るく微笑みかけてくれました。
精神的にも、金銭的にも辛かったはずなのに、いつもと変わらぬ明るさで私のことを包み込んでくれたのです。
母は、私の絶対守護者でした。振り返れば、私が生まれてからずっと、母は天国へ帰るまで、いつも明るく、無条件で守ってくれていました。
母には、感謝の言葉しかありません。 あ り が と う