理想は高く!  「教育は愛」No.80

管理職

管理職ー8 理想は高く掲げましょう!

◆校長になると学校経営の方針を定めなくてはなりません。その方針には、校長が目指す学校の姿や教職員の目指す姿を具体的な児童像とともに明らかにしなければなりません。

 私は、その際、理想は高々と掲げる必要があると思っています。

 その理想は、実現できるかどうかは分かりません。しかし、実現可能な姿ばかりを遠慮して掲げていては、その学校や組織に進化は期待できません。

 私は、「教育は愛」という自分の教育信条を掲げながら、教職員の目指す姿には次のように説明しています。

 「私は、願わくば、もう一度教員のことを『聖職者』と呼ばれるように復権したいと考えています」

 ベテラン教員の中には「校長先生は、本気で『聖職者』への復権ができると思っているのですか?」と真顔で質問してくる者もいました。

 私は答えました。「できるか、できないかが問題ではありません。要は本校の教員が『聖職者』と呼ばれることを目指して、意識して日々の仕事に邁進することが大事なのです」

 『聖職者』と呼ばれるには、学校で子どもたちが満足する授業をしているだけでは、不十分です。

 保護者や地域の方、その他外部の方々から見て『聖職者』と思っていただくためには、一人の人間、社会人として立派だと思っていただかなくてはなりません。

 最近の若い先生方は、真面目で授業にも熱心な先生が多いです。また、自主性もあり、自分の考えもしっかりと持っている方が多くなってきました。ある意味、自分に対して自信を持っている先生も相当数いらっしゃいます。

 しかし、時に、その自信が傲慢な態度となり、信頼を損なってしまうこともあります。

 私は、一緒に仕事をしている仲間の教師には、適切な応対辞令ができるようになってほしいと願っています。応対辞令とは、物事をテキパキとこなし、対人関係においても、礼を重んじ、場に応じた言動がとれることを意味しています。

 そのためには、その場に居合わせている方が、今、どのようなお気持ちでいるのかを察することが必要です。この察する力を備えるには、なかなか年季が必要となります。

 学生時代、規律に厳しい運動部に所属していた者は、礼節とか、先輩後輩の上下関係などを自然と身に付けているので、就職しても比較的適切な応対辞令ができるようです。

 また、私のように教師のスタート時に、体育の研究サークルに所属して、一定の上下関係の中に身を置いていると、それなりの応対辞令を身に付けることができます。

 しかし、行き過ぎるとその弊害も出てきてしまいますので、ほどほど感が良いでしょう。

 話は、理想を掲げるところから『聖職者』へ飛び、応対辞令にまで飛び跳ねてしまいました。話を理想を掲げるところへ戻しましょう。

 小林一三氏は、宝塚歌劇団を創設された時に「清く、正しく、美しく」という教えを高々と掲げました。実際には、人間が集う中で「清く、正しく、美しく」を保てることは至難の業でしょう。

 それでも、そこに近づけるよう努力しましょう、そうすることで、芸も磨けるし、人としての品格も向上できる、とお考えになられたのではないでしょうか。素敵な教えだと思います。

 組織に掲げる理想は、例え、実現不可能と思われるような内容でも、そこに向かって所属するメンバー全員が努力できるように持っていくためのものではないでしょうか。

 だからこそ、リーダーは、崇高な理想像を声高に掲げた方がよろしい、と私は思っています。

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