教師-2 私が考えるプロ意識とは
◆管理職になると、所属職員の色々な思いを知り、時に悩みを共有することもあります。
また、職場の中には、困っている自分の仲間を何とかして助けてあげたいという面倒見のよい人が必ずいるものです。職場は助け合い、支え合って、職員みんなでよい仕事をするというのは、大切なことであり、基本だと思います。
しかし、職場は、仕事の対価としてお金をいただくプロの集まりです。教育を主眼とする学びの場だけではありません。
プロ意識を持つ、とはどのようなことなのでしょうか。
私は、学校と教育委員会しか、職場は知りません。
私は、自己流かも知れませんが、教諭時代からプロ意識を持っていました。これは、人生の師と仰ぎ続ける長嶋茂雄さんの影響があります。長嶋さんのことを話し始めると、終わりがなくなりますので、他の章で書かせていただきます。
さて、私のプロ意識というのは、基本的に自分の仕事については、自分で責任を持つというシンプルなものです。決して他人の所為にしてはいけないのです。
質の高い仕事をしたければ、自分で磨く以外にないのです。子どもたちや保護者の方から信頼されるような仕事をするには、授業力を磨き、保護者との協働方法について、磨くのです。その上で、職場の仲間と良好な人間関係を築くことが必要となるのであれば、どのように仲間と接すればよいかを考え、工夫するのです。
学校という職場は、教えるということをメインテーブルに置いた場です。ですから、先輩の教員が後輩に親切丁寧に指導するのです。これは、これで素晴らしいことだと思うのですが、やり過ぎ感も拭えません。
あるベテラン教師は、基本的なところを丁寧に指導し、それ以外は本人に任せています。やるか、やらないか、深めるか、深めないかは本人次第だとキッパリと割り切っているのです。
私はこのベテラン教師の考え方に賛成です。
先輩として、管理職として、平等にアプローチをしても、返ってくる反応、特に熱量は皆、異なります。その違いは、その人が持っているプロ意識と無関係ではないと思います。
最も、全員が全員、私が良かれと思ったアドバイスを有益だと考える必要はありません。
「千葉のアドバイスは理解できない」と判断することもあるでしょう。プロなのですから、自分の腕を磨くための方法も自得している教師もいます。
そういう場合も含めて、全員に同じように理解させようとすることなど不可能なのです。基本的なことは教える。それ以上は求められれば教えるし、自分で方法を見つける、他の人に教えを求める、など自分で考えれば良いことなのです。職場に居るのは皆プロなのですから。
教員の商売道具である授業力を磨くことは、そのことでお金をいただいているのですから当然のことです。公立学校という職場では、お金を払っていただいて仕事をしているという意識が他の業種に比べて薄い職場だと思います。
厳しい言い方をすれば「お金を払ってでもこの先生に教えていただきたい」という要望がある教師のみ、教壇に立つことが許されるのではないでしょうか。
長嶋さんのことを尊敬している落合博満さんが、中日ドラゴンズの監督だった時のことです。レギュラーの一人が、落合監督に「骨折をしました」と報告したそうです。報告を聞いた落合監督は「それで? 試合に出るのか、出ないのか?」と問いかけたそうです。
プロ野球選手のレギュラーがいかなる理由であれ、試合に出ないと申し出れば、新たな選手がレギュラーポジションを手にします。怪我が治ったから返してくれとは言えない厳しい世界です。
結果、その選手は「出ます」と答え、骨折していてもヒットを打ち続けたそうです。
プロ意識を考えた時、私が思い出す好きなエピソードのひとつでもあります。