滑稽な風景 「教育は愛」No.445

教師

教師ー60 滑稽な風景

◆教師が授業研究を行うことは至極当然のことです。プロ野球選手が、素振りを行い、バッティング練習をしたり、守備練習をしたりするのと何ら変わりはありません。しかし、日常的に授業研究を行っている教師でも、研究授業を発表するとなると尻込みしてしまう教師が少なくありません。

 そして、滑稽な風景を何度も目にしてきました。

 研究授業を発表する教師を決める際には、黙って下を向いていた人たちが、いざ、発表する教師が決まった途端、元気を取り戻すのです。そして、研究授業について、いろいろとアドバイスし始めるのです。

 それを聞いていると実に滑稽だなぁ、と思ってしまいます。「それだけの理屈が言えるのであれば、どうしてあなたが、授業者にならなかったのですか?」と不思議な気持ちになってしまうのです。

 まだ、授業に対する知識や意見が言えるほど、自分に力がないと思って手を挙げなかったのならまだ分かります。そういう人は、研究授業について意見を言えるほどの力をもっていないので、研究授業についての話し合いの場でも聞くこと、メモすることに徹しています。

 ところが、専門用語を交えながら、熱心に意見を言い放つ教師たち・・・その人たちを見ていると「あなたの授業を観てみたい」と思ってしまうのです。

 担任時分、体育の先進校と言われていた他県の学校へ視察に行きました。授業について疑問を感じたところがあったので、約1ヶ月後に控えている自分の研究授業の学習指導案を添えて、手紙を書きました。決して、先進校の授業を否定しているのではないのです。自分は、このように思って、授業計画を立て、研究授業を行おうとしています。いかがでしょうか?と意見を申し上げたのです。そして、よろしかったら私の授業もご覧になって情報交換をしませんか?と提案したつもりでしたが、スルーされてしまいました。

 言うだけなら容易いことです。しかし、自分の実践を提案しながら意見を交わすことは、授業研究をしている教師としては、医師が学会で論を交わすような営みでないか、と当時から私は考えていました。

 やや脱線してしまいましたが、教師たる者、授業研究にもっと積極的になってほしいものだと願っています。研究授業をやりたくて仕方のない教師が何人も出てくるような、そんな風景を見ることはできないものでしょうか?

 私は、研究授業の授業者が決まった瞬間、安心して元気になってしまうような教師には、真に子どもを変容させるような授業など、いつまで経ってもできない、という持論をもっています。

タイトルとURLをコピーしました