諦めてしまう教師 「教育は愛」No.374

教師

教師ー56 諦めてしまう教師

◆最近、最初から諦める教師が多くなってきたように感じています。子どもたちにとって成果が期待できることがあっても、その前に幾つかの困難が予想されるとアッサリと諦めてしまう教師が実に多いことか。この背景には働き方改革の影響もあるのかも知れません。

 以前、電気自動車の開発を特集した番組がありました。車に積載する電池の開発が大きな困難だったそうです。何回失敗しても、将来、必ず必要とされる電気自動車を開発しなくてはならない!という使命感に燃えて、試行錯誤の末、完成させたというドキュメンタリー番組でした。

 スタッフの熱い情熱と決して諦めない姿勢に感動しました。

 それに比べて、学校教育の世界では、子どもたちにとって大きな成果が見込まれることについても、困難をひとつでも見出すと、教師の負担感や多忙を理由に付加して、アッサリと白旗を上げてしまう傾向が顕著になってきました。

 そこには、電気自動車を開発されたスタッフのように、全ては消費者のため、もっと言えば、人類の幸せのためという大義名分は見当たりません。

 子どもたちの幸せから目を離した教師自身の勝手な理由にしか聞こえないのです。

 学校は誰のためにあるのか? 子どもたちのためです。子どもたちの未来を拓くために、教育活動が営まれるのです。全ては子どもたちのため、そこに教師としての生き甲斐や、やり甲斐を感じられるのではないでしょうか。

 子どもたちのためになることなら、困難が幾つ立ちはだかろうが、知恵を出し、体を使って、それらを解決して、やり遂げようとする勇気と行動力があったというのは、私の思い込みだったのでしょうか。

 子どもたちの利益を置き去りにした教師の負担感を解消するための安易な道を選ぶ学校教育には、魅力も未来も感じません。

 子どもたちや保護者から尊敬と信頼を集めていた聖職者としての「教師」の姿は、最早、過去の幻想になってしまったのでしょうか。

 教育のプロとしての矜持と情熱をもつ教師を育てきれなかった私たち昭和世代の責任は看過できないものだと、今更ながら自省することしきりです。

 全ては子どもたちのために、それが教育であり、教師本来の姿なのです。

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