家庭教育-6 大事な徳目「親孝行」を家庭教育の中心に
◆女手一つで私と弟を育て上げてくれた母親、感謝してもしきれない母親なのに私は死に目に会うことが出来ませんでした。母が亡くなってから「親孝行、したい時には親はなし」という言葉が後悔の念とともに胸に広がりました。
学校教育では特別の教科道徳という授業があります。心の豊かさがクローズアップされ、道徳は教科に格上げされて子どもたちに教育されています。道徳の授業では、色々な徳目が挙げられていますが、私は親孝行を大きく取り上げた方がよいのではないか、と自身の親不孝を嘆きながら考え込んでしまいます。
子どもにとって感謝の気持ちを最も身近に伝えられるのは親です。子ども中心の考え方が平成の時代から主流になってきました。父親は、権威を失い仲良しの友達パパとなり、母親は子どもの代わりに教師に宿題の出し方まで注文を要求するようなマネージャー・ママになりました。
確かに、子どもに寄り添い、子どもの願いや思いを叶える教育は大切です。しかし、同時に我慢する心や感謝する心を子どもたちにはぐくむことは、将来、変化の激しい世の中を子どもたちが主体的に生き抜いていく上で欠かせない資質です。
会津の藩校日新館に残されている「什の掟」にあるように「ならぬことはならぬのです」と難しい理屈をこねる前に、子どもたちに生きる基本として身に付けさせておかなければならないこともあるのではないでしょうか。
その内容は、各家庭で異なり、家庭教育の場が基盤となって行われるものです。
しかし、親孝行だけは、家庭教育の中心として、各家庭共通して取り上げていただきたいものです。親孝行を通して、目上の人への礼節や他人の立場を思いやる心など、数多くのことを子どもたちに教えられるはずだからです。
私は、母親の死を通して「命はその人が持っている時間である」ということに改めて気付かされました。母親は77歳で天国へ旅立ちましたが、私の中ではいつも40歳代の明るく強い母親をイメージしていました。
母親が、自分の死について話し始めると、私は「母さんは、100歳まで生きるよ」と一向に耳を傾けようともしませんでした。近所に独り暮らしをしている母親のことより今、自分の目の前にある仕事のことで頭がいっぱいだったのです。
ある日、母親が「私の居場所を考えてよ」と珍しく言ってきたことがありました。
私は「まだまだ、母さんは元気なんだから独りでのんびり暮らした方がいいよ」と突き放してしまいました。近所に住んでいるという安心感もあったからです。
しかし、母に残された時間は、私が思っているより少なかったのです。後悔先に立たず、です。
母親の葬儀後、真言宗のお経を買い求め、読経を始めました。
毎日とはいかないまでも、休日には、できるだけ読経するように心がけています。母に対してせめてものお詫びと供養のつもりです。
美輪明宏さんの書物に「親が死んでからも親孝行は出来る」という一節がありました。
この言葉に救われた思いがしました。母のことを思い出し、感謝して手を合わせるだけでも親孝行になるのではないか。
そして、母に感謝しながら自分に残された時間(命)を精一杯生き切ることが何よりの親孝行になるはず、と自分に言い聞かせています。
「親孝行したい時には親はなし」 本当に的を射た言葉です。